モリコーネへの旅

一本の映画を見に行く。

京都の山奥から車を走らせ30分かけて最寄駅へ行き、
京都駅から新幹線で新山口へ。

ところで改めて考えると、
僕は新幹線があまり好きではない。

色んな事情で新幹線に乗る事はあるし、
どこか遠くへ自分の身体を運んでくれる乗り物だから、
今までは飛行機みたいにワクワクする好きな乗り物だと
勝手に枠組みを決めてそこに押し込んでいたのだけれど。

そういえば新幹線に乗るときは、
ご飯にコーヒーにお菓子に本は2冊ほど、
そしてヘッドホンと自分で持ち込める楽しみを万全に準備していく。

速度は速すぎるし
周りの人たちは疲れた顔をしている人も多い印象がある。

新幹線自体に(当たり前かもしれないけど)
僕が僕であるための余白がないんだ。

その反動もあってか、
新山口から在来線に乗り換えたときはそれはもう気持ち良かった。

赤い二両編成のワンマン電車がトコトコと自信なさげにやってきて、
ゆっくりな割に大きな音を立てて走ってゆく。

民家も山も近いから、扉が開いたときの風は気持ち良いし
親近感のようなものも湧く。

もしこの電車が道を間違えたとしても
(まさにレールの上を走る人生だからそんな事はないだろうけど)、
僕はきっと許してしまう。

そんな愛らしさがある。

湯田温泉駅に着いてしばらく歩くと中原中也記念館があった。

どうやらここが彼の生誕地らしい。
せっかくだから寄ってみる。

生で書かれた当時の原稿は少し読みにくいけど、
印刷されたものの校正前であったりするから面白い。

そして、ようやく目的地の山口情報芸術センターへ。

今回は、映画

『モリコーネ 映画が恋した音楽家』を

見る為にここまで来たんだ。

もちろん、ここでしかやっていない訳ではないけど、
いくらモリコーネが好きだからと言って常にチェックしてる訳でもなく、
ましてや今の田舎暮らしの中で最新の映画をチェックする習慣が
無くなってしまい公開に気が付かなかった。

たまたまSNSで発見した時には、すでに関西圏での公開は終了していて、
東京か山口ならなんとか間に合うと思って、山口にした。

 

一本の映画を見る為に、京都の山奥から山口に?
車で駅まで行って、在来線で京都駅
そこから新幹線で新山口駅
さらに在来線で最寄駅まで行って
さらに歩いて20分かけて?

 

うん、馬鹿げてるのかもしれないな。

でも、それにかかった時間もお金もどうでも良かった。

公開を知ってしまった瞬間から、
それを観に行く事は僕の中で決定していたから。

今回の映画について、
全然自分が通ぶってる訳でもないし
(むしろモリコーネについて知らない事だらけだと今回分かった)
とても有名な方なのですが、映画の内容とともに少し説明を。

エンニオ・モリコーネというとても偉大な映画音楽家がいて、
2020年に91歳で亡くなってしまったのだけど、
今回の映画は彼を5年間に渡る自他インタビューや関わった作品と
共に紐解くドキュメンタリーです。

僕にとっての代表作は
『ニュー・シネマ・パラダイス』で、
今回のドキュメンタリーを撮ったのも同監督、ジュゼッペ・トルナトーレ。

『ジュラシックパーク』や『スターウォーズ』で知られる
ジョン・ウィリアムズも、
ディズニー映画といえば!のアラン・メンケンも大好きだけど、
『ニュー・シネマ・パラダイス』は
僕の中では特別で、別の意味を持つ。

 

この映画に、この音楽に、
何度も泣かされて何度も救われた。

聴いたことがないくらい美しくて完璧なメロディーラインとハーモニーが
決して映画を上回る事なく、だけどそれなしでは語れない伴走者として
登場人物の心情とマッチする。

セリフ・役者の演技・風景・カメラワークの
どれでも補えない心の部分をこの音楽が完璧に表している。

そんな、
僕にとって憧れでもあり血肉でもある
モリコーネのドキュメンタリー。

ミニシアターでしか上映されず、DVD化の保証はない。

山口県で良かったよ。
後から知る方が何倍もつらかった。

 

内容に触れるようなものではないけど、
上映中は心の中で4回号泣しました。笑

あえて言うなら、パンフレットの中で
監督のジュゼッペ・トルナトーレが触れていた
”彼の死を予期して作り始めたドキュメンタリーではないから、
死後完成したとは言え過去形で語らないようにした”

という狙いはまさに気持ち良くハマっていて、

エンドロールの時に、
「あぁ、もうこの世にいないんだな」とふと思い出してしまったのが、
最後の泣き所でした。

本当に観に行けて良かった。

今回の旅の感謝は、家族に。
突然の日帰り旅を快諾してくれた
はるかと織とお米へ。

ありがとう。

ニュー・シネマ・パラダイス

エンニオ・モリコーネが旅立った。

生きていれば会えるとは正直思っていなかったけど、
あの素晴らしい音楽を作ってきた人が僕と同じ地球上で
現在息をしている事実が
嬉しかった人のうちの一人だった。


(映画『ニュー・シネマ・パラダイス』より)

子供の頃、母親がジャニーズのアイドルのことを
カッコ良いと言っていて、
僕が「お父さんとそのアイドルはどっちがカッコ良いの?」
と聞いたら
母親は「アイドル」と即答だった。
それを聞いた僕は
「じゃあなんでお母さんはそのアイドルと結婚しなかったの?」
と本気で疑問に思って聞いたことがあった。

それぐらい、生きている限りは出会えて関係を持てる可能性があると、
あるいは世界は小さいと幼い僕は考えていたのかもしれない。

エンニオ・モリコーネが亡くなる数週間前、
『ニュー・シネマ・パラダイス』の
サントラを聞きながら奥さんと話をしていたら、
奥さんが
「〇〇(僕が住んでいる住所の最小単位)のエンニオ・モリコーネ」と
僕のことを呼んできた。
彼の話ばかりする僕のことをからかった言葉だったんだろうけど、
なんだかとても嬉しかった。

とてもそうはなれそうにないんだけど・・・。

 

その昔、誰かに聞いたのか何かで読んだのか、
はたまた記憶のないうちに自分で編み出したのか覚えてないけど、
『音楽の神様は細部に宿る』という言葉を知って、
(いや、もしかすると絵画の話だった言葉を僕が『音楽』に変換したのかもしれない。なんだかそんな気もしてきた。笑)
それからずっと音楽を作るときも聞くときも
その言葉が頭にこびりついて離れない。

あるいは、甲本ヒロトが何かの雑誌のインタビューで話していた
「彼(誰か忘れてしまったけど、昔のロックンロールのギタリストの話だと思う)のチョーキングは、素晴らしい一冊の小説の読後感に匹敵する」
と言っていた。

素晴らしい一冊の小説にこめられた情報量と感情の起伏と作者の意図。
それらが一音のチョーキングにこめられている、ということだ。

(映画『アンタッチャブル』より)

僕の好きな音楽家はみんな、そういう人達だ。
大筋の太さやメロディーラインの美しさはもちろんのこと、
音楽の神様を細部に宿し、
一音に、一つの歌詞に全ての意図と物語を込める。

 

エンニオ・モリコーネもそういった音楽家だった。

映画のストーリーや登場人物の感情を、
音楽によってよりセンシティブに繊細に、
大袈裟に作り上げるのではなく、
映画をベースに底からジワッと温めて拡げるような音楽。

モネやルノワールのような”ファンシーさ”(これはこれで大好きだ)というよりかは、コローのような”誠実さ”を持った音楽だと感じた。

人が亡くなっていくのは、変わり続けない、
この世で唯一全人類に与えられた平等であって、
悲しんで、慈しんで、思い出して、前を向いて、
次の美しい未来を作ってゆく。

 

天国から舞い降りたような美しい音楽を作ったあなたは、
天国でもピアノを弾いて、指揮棒を振っているのだろうか。

そんな音が一小節でも、僕の心に届くと良いな。

安らかに、お眠りください。

僕が、あなたの音楽を好きであるという事実は変わりません。