ニュー・シネマ・パラダイス

エンニオ・モリコーネが旅立った。

生きていれば会えるとは正直思っていなかったけど、
あの素晴らしい音楽を作ってきた人が僕と同じ地球上で
現在息をしている事実が
嬉しかった人のうちの一人だった。


(映画『ニュー・シネマ・パラダイス』より)

子供の頃、母親がジャニーズのアイドルのことを
カッコ良いと言っていて、
僕が「お父さんとそのアイドルはどっちがカッコ良いの?」
と聞いたら
母親は「アイドル」と即答だった。
それを聞いた僕は
「じゃあなんでお母さんはそのアイドルと結婚しなかったの?」
と本気で疑問に思って聞いたことがあった。

それぐらい、生きている限りは出会えて関係を持てる可能性があると、
あるいは世界は小さいと幼い僕は考えていたのかもしれない。

エンニオ・モリコーネが亡くなる数週間前、
『ニュー・シネマ・パラダイス』の
サントラを聞きながら奥さんと話をしていたら、
奥さんが
「〇〇(僕が住んでいる住所の最小単位)のエンニオ・モリコーネ」と
僕のことを呼んできた。
彼の話ばかりする僕のことをからかった言葉だったんだろうけど、
なんだかとても嬉しかった。

とてもそうはなれそうにないんだけど・・・。

 

その昔、誰かに聞いたのか何かで読んだのか、
はたまた記憶のないうちに自分で編み出したのか覚えてないけど、
『音楽の神様は細部に宿る』という言葉を知って、
(いや、もしかすると絵画の話だった言葉を僕が『音楽』に変換したのかもしれない。なんだかそんな気もしてきた。笑)
それからずっと音楽を作るときも聞くときも
その言葉が頭にこびりついて離れない。

あるいは、甲本ヒロトが何かの雑誌のインタビューで話していた
「彼(誰か忘れてしまったけど、昔のロックンロールのギタリストの話だと思う)のチョーキングは、素晴らしい一冊の小説の読後感に匹敵する」
と言っていた。

素晴らしい一冊の小説にこめられた情報量と感情の起伏と作者の意図。
それらが一音のチョーキングにこめられている、ということだ。

(映画『アンタッチャブル』より)

僕の好きな音楽家はみんな、そういう人達だ。
大筋の太さやメロディーラインの美しさはもちろんのこと、
音楽の神様を細部に宿し、
一音に、一つの歌詞に全ての意図と物語を込める。

 

エンニオ・モリコーネもそういった音楽家だった。

映画のストーリーや登場人物の感情を、
音楽によってよりセンシティブに繊細に、
大袈裟に作り上げるのではなく、
映画をベースに底からジワッと温めて拡げるような音楽。

モネやルノワールのような”ファンシーさ”(これはこれで大好きだ)というよりかは、コローのような”誠実さ”を持った音楽だと感じた。

人が亡くなっていくのは、変わり続けない、
この世で唯一全人類に与えられた平等であって、
悲しんで、慈しんで、思い出して、前を向いて、
次の美しい未来を作ってゆく。

 

天国から舞い降りたような美しい音楽を作ったあなたは、
天国でもピアノを弾いて、指揮棒を振っているのだろうか。

そんな音が一小節でも、僕の心に届くと良いな。

安らかに、お眠りください。

僕が、あなたの音楽を好きであるという事実は変わりません。