遠く、遠い。

今年に入って初めてのブログ。

というより、
前回のブログは2020年9月だから、
実際には4ヶ月ほど空いてしまったんだ。

この4ヶ月間で起こったたくさんのことは、
現場であるいは短い言葉でSNSを通して
共有出来ていたら嬉しい。
(急に投げやりですみません。笑)

僕がまだ言えてないことと言えば、

今年はどうやら欲しいものが
たくさんあるみたいということ。

①C Hijazが基調となった15notes以上のハンドパン
②1000坪程度の家と土地
③車
④ヤギ
⑤ニワトリ

こんなにもたくさんのモノを欲しいと
感じたのは人生で初めてだろう。

僕は持たざる幸せや
不足や不便からなる手間
みたいなものが割と好きなんだから。

ただ、これらのモノを欲しがる一方で
お金とか世間的信頼とか、
今まで避けてきたものたちが
借金取りのようにツケを払えと迫ってくる。

それが不快だとか
今までの生き方を後悔しているとかは
ないんだけど
僕自身がまだまだ
甘ったれた鼻垂れ小僧なんだなとも思う。

道端に落ちている
小さな石コロに躓くような理不尽からの
逃げ方も分からないし、

誰かが悲しんでいる時の
寄り添い方も分からない。

星の名前も花の名前も知らないし、
旅立とうとする人の送り方も分からない。

 

「願えば叶う」

それはそうなんだけど、僕は
“願えば”と”叶う”の間に横たわる膨大な
何かをまだ知らない。

 

一歩ずつなんだ。

道を間違えて、石に躓いて、
汚れた手で目を掻いて充血したり、
登山に革靴を履いちゃったりしながら、

一つずつ。

 

滑稽に見えて笑われたり、
見当違いだったりそうでなかったりする
怒りや無視にも
愛を込めてお辞儀を出来るように。

まだまだ、遠くまで歩いていける。

アートは、偉大だ。

 

左耳のこと。

僕は、生まれつき左耳が聞こえない。

 

本当の意味での生まれつきかは分からないけど。

小さい時に母親に、
いつから自分は左耳が聞こえなかったのか。
と聞いたところ、
「知らないけど、ずっと聞こえなかったと思うよ」と言われたから、
きっと生まれつきなんだ。

僕の記憶の中に、左耳が聞こえていた頃はないし。

(多分小学生の時の僕)

小学生の時は、
公(田舎の小学校の、2クラスで50人ぐらいしかいないような場所だけど)に
発表をしていた。

母親から、
「しゅうは左耳が聞こえないから、配慮してもらわないとダメだよ」
と言われていた。

席替えをする時には、自分が左耳が聞こえないことが前提となって、
みんなと同じようにクジを引くけど、僕は先生から見て常に右側、
つまり右耳が先生の声に近いような席をもらっていた。

 

中学校に上がると、
いくつかの小学校がまとまって一つの中学校に上がる中で、
”ガイジ(=障害児)”という単語が流行った。

それは、例えば物分かりが悪かったり、
バカみたいなことをする(今で言う隠キャも陽キャも)
同級生に対して使う言葉で、
笑いの種となるような言葉だったから、
男子はよく使っていた。

でも、僕は自分のことを障害児だと思っていたから、
そんな言葉をとてもじゃないけど笑いながら使うことなんて出来なかったし、
そんな言葉を聞いたらなんとなくイヤな気持ちになっていた。

だから、その言葉が笑いになる時はなるべく後ろの方にいることにした。

そんなこともあって、中学生になると自分の左耳のことを隠すようになった。

吹奏楽部に所属していた僕は、
ある時どこから聞きつけたのか顧問の先生に呼び出されて
「しゅうって左耳聞こえないんやろ?なんでみんなに言わないん?みんなのこと信用してないん?」
と言われたことがあった。

僕は、よく分からなかった。

自分が周りを信用していないのか、自分を信用していないのか。

そんなある時、友達が
”右耳と左耳に交互に音が流れることによって立体的に
(僕は今でもその言葉の意味がひょっとすると分かっていない)、
その場にいるような臨場感で音を聞くことが出来るイヤフォン”
というものを持ってきた。

みんながそれを聞いては、
「うおっ!!」とか「すげー!!」とか言いながら笑い合う中、
僕だけは頑なにそのイヤフォンを着けなかった。

(20歳まで飼っていた愛犬、りゅう)

高校生になって僕はバンドを始めた。
メンバーにも左耳のことは長らく言わなかった。
(活動から3年ほど経った時に、ボーカルに改めて電話して、
泣きながらそのことを伝えたのを覚えている。
その時あいつがなんて言ったかは忘れたけど、
その後7年ぐらいそのバンドにい続けたことを思うと、
なにか嬉しい言葉を言ってくれたんだろうな。)

(DAMでDr.を叩いてた僕)

 

そして、僕は高校生活の中でますますその事を隠すようになった。

人と並んで歩く時は、自然な流れでその人の左側に。
ご飯屋さんでカウンターに座る時も、
電車で座席に座る時も、
何にも言わず左側に。

それでも、やむを得なく右側に立ってしまった時は、
不自然なぐらい真っ正面からその人の顔を見たり、
僕にしては不自然なくらい大きな声で喋ったり
会話の主導権を自分で握ったりした。

きっと、僕が左耳のことを告白をしなかったせいで
色んな意味で不快な思いをした人もいるんだろうな。

本当に、ごめんなさい。

 

高校生活のある時、身体検査の中に聴力検査があった。
それも、5人一組のグループで、同時に。

小学生の時は公表していたから、左耳はパス。
中学生の時は、多分一人ずつだった。

僕は、どうしたら良いか分からなかった。
左耳にヘッドホンをあてても、もちろん何も聞こえない。

僕は、その場にいる(友人もお医者さんも)全員を騙すつもりで、
周りを見ながらなるべく同じタイミングでボタンを押した。

 

きっとバレないと思った。

だけど、お医者さんにはバレてしまった。

それでもその時のお医者さんは、(きっと良い人だったんだろう)
僕を不審に思ってカルテを見て、
何かを納得したように言葉を飲み込んでそのままスルーしてくれた。

 

数年前に結婚した僕だけど、
奥さんに結婚の話をする時も、
泣きながら自分の左耳のことを話した。

「もしこれが遺伝性のもので、
この子との間に出来た子供に同じ障害が残ったら、、、」

そう思うと、僕は奥さんも子供も不憫で、
これが理由で結婚を断られても良いと思った。
(その時の奥さんの反応はよく覚えてる。
何を思ったか、
まだ何も話してないのに泣き出したかと思うと、
いざ話を聞いて
「そんなことか……。良かった……。好きになった人が既婚者で、
私は浮気相手なのかと思った……。」と言われた。笑)

(奥さんと僕)

 

そんなこんなで、僕は今でもこの事を必要以上に言わないようにしている。

 

同情も欲しくないし、軽蔑も欲しくない。

あえて言うなら、(そんなことはないけど)これが理由となって、
今の自分を”才能”と思われることも嫌だ。

 

それでも、まだしっくりときていないこの30歳という器を持った自分で、
この事を形にしてみたかった。

僕にとっては当たり前の事実で、誰かにとっては驚きの事実で、ほとんどの人にとってはどうでも良い事実だけど、文章にしてみたかった。

(the caves×SHU)

(画家・森元明美との即興セッション後)

僕はきっと、これからも一生左耳が聞こえない。

音楽的に言う「パンを振る」と言う言葉の真意はきっと理解出来ない。
(片耳が聞こえないと、その音がどちらから聞こえてくるか、
という”立体感”が両耳が聴こえる人に比べると圧倒的に分からないらしいんだ。
分からない、ということも実際には分からないけど。)

もしもこの左耳が聞こえるようになるとして、
100万円払って手術がしたいか、なんて聞かれてもわからない。

自分がどれほど今まで損をしてきたのか知らないから。
もしくは、損をしてきたことに気が付いたら嫌だから?

(祖父にハンドパンを教える)

きっとこれからも、この事を言える人と言えない人がいると思う。

スーパーニュートラル。

ライブにお誘いをして頂いた時にたまーに、
「年齢って非公開ですか?」とお気遣いをしてもらう時がある。

もちろん、そんなことはない。
僕は明日、誕生日を迎えて30歳になる。

(愛犬、お米と29歳の僕。)

10歳の時、”班登校”という近くの子供達が1年生から6年生まで
いっしょくたになって待ち合わせをして学校へ向かう道の途中、
ふと「この倍生きたら僕は20歳になるのだ」と漠然と思い、
少しだけうんざりして少しだけ興奮して、
未来への大きな期待と途方もない”10年間”について思い悩んだことがあった。
(20歳になった時、何も変わらない自分に大きく失望したことは言うまでもない。)

正直に言うと、29歳の僕は今、相変わらず30歳になることに同じ感情を抱いている。

それこそが何も変わっていない証拠なのかもしれないけれど。

(2020年the caves×SHUオーストラリアツアー。Photo by BOWEN HOPPER)

きっと僕はいつまでも
豊かな現実を有り難く享受しながら
その先を憧れのように見つめ続ける。

(お米のいる日常。)

人々の寂しさに寄り添えるような音楽を。
幸福や慈しみを全身で感じられる音楽を。

100年後の子供たちに僕らが伝えることが出来ることなんて
想像もつかないから、僕らは自分たちが思い描くものを
思い描く以上に表現し続けることしかないんだから。

(2020/7/5 the caves×SHUライブat FATAPIA。Photo by Chiiho Photography&Works)

みなさん、叶うならば
これからも
恋のようで愛のようで
クソみたいな吐きだめの中にある
輝く場所で
血反吐を吐きながら笑顔で
涙を流して
HateとLoveが手を繋ぐ場所で
会いましょう。

(2020年the caves×SHUオーストラリアツアー。Photo by Alexander William)

樹木希林が娘さんに話していた
「驕らず、他人と比べず、面白がって、平気に生きればいい」
という言葉を胸に。

(家族と桜。)

20代最後の僕からみなさんへ、
最大限の感謝と愛を込めて。

(能勢の山道にて。)

喫茶店とラーメン屋

僕の一日は、ライブや練習その他人と会う用事がなければ
一日中を家の中で過ごす。

奥さんの仕事の時間に合わせたり合わせなかったりしながら不定期に起き
(僕は寝ることがとても好きだ)、
朝ごはんを作ったり作らなかったりする。
場合によっては奥さんのお弁当も作ったりする。
前の日の夜に天気を確認し、洗濯物が溜まっていたら洗濯をする。
ゴミの日には台所、リビング、水回りのゴミを集め、掃除機をかける。
家の前に出て掃き掃除をするのはもはや日課だ。

その間に愛犬に朝ごはんをあげる。
朝ごはんの器を洗い、気持ちも家もスッキリすると
愛犬と遊びながらケータイを見つめる。

ひとしきり遊びおわると、ようやく仕事をする気になる。
パソコンの電源をつけ、メールチェック、ケータイのメモに書いてある
”やる事リスト”を眺め、処理してゆく(その中には、「コーヒーを飲む」や、
「YouTubeで〇〇を見る」なども含まれている。
僕の仕事は全て義務ではないから、このようにあらゆる”やる事”が混在する)。

「ハンドパンを演奏すること」だけは呼吸のようなものなので書いていない。
(やる事リストに「呼吸をすること」と書かなければならない事態に
なることもあるのかもしれないけど。)

その中に「ジャンプを読みに行く」や「ラーメン屋に行く」が入っていると
ワクワクする。

週刊少年ジャンプは、僕の愛読書だ。
そして僕はコンビニで買うわけでもなく、
ダウンロード版を購入してスマホで見るでもなく、
必ず喫茶店に行って読むことにしている。

この時間が大切なんだ。
ホットコーヒー、時間によってはモーニング、
お昼を作り損ねた時はランチを頼んで、
タバコに火をつけてジャンプをめくる。

読み終われば棚に返して、
持ってきた本の続きを読んだり、
ブログを書き始める。
一週間のうちのほんの2時間程度。
これが僕の心の平穏を保っている。

ラーメン屋も同じだ。
ここのラーメン屋は家からも近くて、
タバコも吸えて、何よりも(申し訳ないが)繁盛店ではない。
ゆっくりとビールを飲みながら本を読んで過ごせる。

どちらのお店も、家からあまりにも近いから
トイレはあまり使ったことがない。
家を用を足してから店に向かい、
トイレに行きたくなったら家に帰る。

僕を、家から出してくれるお店たちよ。
どうか、なくならないでくれ。

見守られながら。

今回は、僕の隣に住むおばあちゃんの話です。

僕は現在大阪市内に住んでいます。
こう聞くと、とってもナイスなシティーボーイに聞こえる。

確かに、心斎橋や難波へは自転車で10分程度、
天王寺や梅田だって20分も自転車に乗れば着いちゃう。

だけど、僕が住んでいる家は大正時代から100年近く建っている
長屋のうちの一軒家で、家の前には雨から守ったり日差しを遮ったりする
大きな大きな木が生えている。

あまりにも大きくて、公道にもはみ出しているけど、
誰が植えたかなんて分からないから誰も処理しない。
「この木は根っこが家の下まで伸びているから、もし切ったら家が崩れる」
とも言われ、
「この木のおかげでこの長屋は大阪空襲を生き延びた」とも言われる。

さらに家の中に入れば、一軒家とは思えないほどの狭い間取り。
昔ながらの日本家屋らしさもある。

建物だって歪んでいるから、扉は固くて、
梅雨の時期は木が膨張していよいよ動かない程だ。

そんな長屋がまだまだ”新築”に分類されていたであろう時代から
ここに住んでいるのが、僕の隣のおばあちゃん。

 

歳は80代後半だったと思う。

今も元気で、耳だって口調だってハッキリしているし、
この間まで自転車に乗って買い物に行っていたし、
1日に何度も家の外に出て自分が植えた植物たちの面倒を見ている。

天気の良い日は外に椅子を持ち出して、
大きな木の下で編み物やえんどう豆の皮むきをしたり本を読んだりしている。

僕は、仕事柄ライブの日以外は家にいることが多くて、
(つまり、最近はずっと家にいる・・・)
身体を伸ばすために外に出た時によく会うから、その時にお話をする。

この家のことも、大きな木のこともおばあちゃんから教えてもらった。

 

お手製のきゅうりのぬか漬けや、作り過ぎたポテトサラダ、
彼女の友人の庭に自生しているニラのお裾分けなどもよく頂く。

彼女が育てている大葉や金柑は、必要とあればキッチンからそのまま外に出て、
少しもぎって料理に使わせてもらっている。

そんな彼女との話。

彼女の娘さんと息子さんのこと、
パンデミックのせいでなかなか家から出れなくてストレスが溜まるということ、好きなことをして生活をしている僕をとても羨ましがってくれること、
昔のこと。

 

彼女が言ってくれた
「お金なんて今はなくてもいい。ワタシは今は多少お金あるけど、好きなことなんて何も出来へん。それよりも、若い時にお金が無くても苦労してた時代の方が楽しかったわ。」

という言葉は、僕には想像も出来ない彼女の人生の重みが詰まっていた。

僕はその言葉を時々「よいしょっ」と引っ張り出して
モサモサとした、癖のあるクッキーのように少しずつ
有り難く齧っている。

 

まだまだ、元気で。

色んな話を聞かせてね。

生活

前回のブログ『ニュー・シネマ・パラダイス』は、実に半年ぶりの更新だった。

その前に書いた東京ツアーのブログ『贅沢な雑記として。』
それから戻ってきた後は怒涛のような半年間だった。

(MV作成中の一枚)

オーストラリアツアーがあり、
(オーストラリアツアーに関しては、
Instagramアカウントにて毎日リアルタイムで更新をしていました!!!
もしよろしければ、Instagramにて”shuhandpan”をフォローの上、
「#australiadiary」でブログを読んだり、
ストーリーズのアーカイブをお楽しみ下さい!!)
世界の仕組みを丸々アップデートしてしまうようなパンデミックがあり、
楽しみにしていた音楽イベントがなくなり、
新しい楽しみ方と穏やかに過ごさざるを得ない日常の中で、
隠れていた次の生き方を模索し、変わろうともがき、変わらないものを愛した。

(オーストラリアにて)

(日常)

その後は、素敵なイベントにいくつか出演をして、
新しい出会いと価値観の中で生まれ続ける新しい自分と変わらない自分の狭間を
揺れながら楽しんだ。

(2020/2/16 Live at LPキッチン)

(2020/5/30 Live at たいよう Photo by オモタニカオリ)

(2020/6/14 BOTAFES みんなのお花見プロジェクト収録)

 

本来なら、一つ一つがブログに書けたことなのに、
何一つとして形にならなかった。

そんな日々の中でも変わらず文章は書き続けていたけれど、
ブログという形でアップをすることが少しずつ怖くなっていった。

書くことに飽きたのではなく、書きたい衝動と書かなければいけない焦燥の中で
書くことが出来なかった。

(2020/7/5 Live at FATAPIAにて)

そして、エンニオ・モリコーネの死を受けて、改めて考えてみた。
僕が音楽を作ることと、文章を作ることについての関係性を。
関係性がないということを。
音楽にしたい生活も、ブログにしたい生活もある。
どちらにもなる生活も、どちらにもならない生活もある。
どちらかがスムーズに進んで、どちらかが立ち止まったり、
どちらも「ダメだこりゃ」となったり
どちらも最高速度をキープしたり。

脳みその使い分けも時間帯による棲み分けも
刺激の強弱による振り幅もない。

まだハッキリと理解出来ていないだけかもしれないけど、
どちらも「なんとなく」という言葉がしっくりとくる。

(2020/7/4 Live at 桜ノ宮foodscape!storeにて)

僕は自分のことを凡人でまともで普通だと思っている。
僕は小さな虫ケラ同然で、どこにでも僕みたいなやつなんていて、
ありきたりの有象無象だと思っていた。
今まではその事実に嫌気がさすことの方が多かったけれど、
最近はそのことに快感を覚えるようになってきた。

自転車で駆け下りながら大好きなあの歌を歌ったって、
世界の主人公なんかじゃないんだぜ。

 

僕は生活が好きだ。
洗濯や掃除や洗い物、犬の散歩。

そう言えば星野源はエッセイの中で生活が嫌いだと言っていた。
僕は星野源が好きだ。
星野源は僕を知らない。

なんてことだ。
なんてすれ違いだ。

 

憧れの松の虫よ。
あなたはいつも隙だらけで、そんな君に魅せられた僕だけど、
あなたの愛はいつも一つだけを見ていて僕が入る隙間なんてないんだ。

(愛する君代さんとthe caves)

「世界が愛と優しさでまわっていますように」
と口に出してみた。
なんとなく言ってみたんだけど、
「まわりますように」ではなかった。

(大切な家族)

ニュー・シネマ・パラダイス

エンニオ・モリコーネが旅立った。

生きていれば会えるとは正直思っていなかったけど、
あの素晴らしい音楽を作ってきた人が僕と同じ地球上で
現在息をしている事実が
嬉しかった人のうちの一人だった。


(映画『ニュー・シネマ・パラダイス』より)

子供の頃、母親がジャニーズのアイドルのことを
カッコ良いと言っていて、
僕が「お父さんとそのアイドルはどっちがカッコ良いの?」
と聞いたら
母親は「アイドル」と即答だった。
それを聞いた僕は
「じゃあなんでお母さんはそのアイドルと結婚しなかったの?」
と本気で疑問に思って聞いたことがあった。

それぐらい、生きている限りは出会えて関係を持てる可能性があると、
あるいは世界は小さいと幼い僕は考えていたのかもしれない。

エンニオ・モリコーネが亡くなる数週間前、
『ニュー・シネマ・パラダイス』の
サントラを聞きながら奥さんと話をしていたら、
奥さんが
「〇〇(僕が住んでいる住所の最小単位)のエンニオ・モリコーネ」と
僕のことを呼んできた。
彼の話ばかりする僕のことをからかった言葉だったんだろうけど、
なんだかとても嬉しかった。

とてもそうはなれそうにないんだけど・・・。

 

その昔、誰かに聞いたのか何かで読んだのか、
はたまた記憶のないうちに自分で編み出したのか覚えてないけど、
『音楽の神様は細部に宿る』という言葉を知って、
(いや、もしかすると絵画の話だった言葉を僕が『音楽』に変換したのかもしれない。なんだかそんな気もしてきた。笑)
それからずっと音楽を作るときも聞くときも
その言葉が頭にこびりついて離れない。

あるいは、甲本ヒロトが何かの雑誌のインタビューで話していた
「彼(誰か忘れてしまったけど、昔のロックンロールのギタリストの話だと思う)のチョーキングは、素晴らしい一冊の小説の読後感に匹敵する」
と言っていた。

素晴らしい一冊の小説にこめられた情報量と感情の起伏と作者の意図。
それらが一音のチョーキングにこめられている、ということだ。

(映画『アンタッチャブル』より)

僕の好きな音楽家はみんな、そういう人達だ。
大筋の太さやメロディーラインの美しさはもちろんのこと、
音楽の神様を細部に宿し、
一音に、一つの歌詞に全ての意図と物語を込める。

 

エンニオ・モリコーネもそういった音楽家だった。

映画のストーリーや登場人物の感情を、
音楽によってよりセンシティブに繊細に、
大袈裟に作り上げるのではなく、
映画をベースに底からジワッと温めて拡げるような音楽。

モネやルノワールのような”ファンシーさ”(これはこれで大好きだ)というよりかは、コローのような”誠実さ”を持った音楽だと感じた。

人が亡くなっていくのは、変わり続けない、
この世で唯一全人類に与えられた平等であって、
悲しんで、慈しんで、思い出して、前を向いて、
次の美しい未来を作ってゆく。

 

天国から舞い降りたような美しい音楽を作ったあなたは、
天国でもピアノを弾いて、指揮棒を振っているのだろうか。

そんな音が一小節でも、僕の心に届くと良いな。

安らかに、お眠りください。

僕が、あなたの音楽を好きであるという事実は変わりません。

贅沢な雑記として。

東京は、あまり好きな場所ではなかった。

もちろん、友達もいるし、ハンドパンで関わっている人だってたくさんいる。
落ち着けるお店も一息つける公園もある。

 

それでも
この場所は僕にとって
大阪へ帰ることを
願う街だった。

 

そんな東京に
the caves×SHU
としてライブを
しにいった

ドラムステーション渋谷さんでのセミナー&ミニライブ
井の頭公園での池を見ながらのハンドパン練習
ハンドパン奏者峯モトタカオさんとの対談
新宿duesでのライブ出演
吉祥寺駅でのストリートライブ
初めから決まっていたかのように
空いた日に出会えた方
突然の出演を快諾してくれた吉祥寺world kitchen BAOBABさん
僕たちと出会ってくれたたくさんの人たち

 

そして
僕たちの暖かな寝床と豊かな時間を惜しげも無く渡してくれた
ミュージシャンの岸本 宗士くん

 

初めて行く
海外のように
新鮮で
今までで一番
満たされた
東京旅になりました

本当に
心から
ありがとうございます

 

 

 

自分が空っぽになってゆく感覚

 

本を読む時間も減って
映画館や美術館に
足を運ぶ回数も減った

自分の中の
とっても大切な
何かが着実に
減りつつある

それは僕にとって
すごく怖いことだった
自分を
自分たらしめている
と思っていたもの達から
自ずから離れていっている

自分の中の
注ぎ続けて
足し続けてきた
何かが
靴の底みたいに
減ってゆく

ゆるやかな生活の中で
地面が崩れるのではなく
足が蔦に絡め取られるような

 

「足さないと生み出せない。」

そう思っていた

“ぼくという水筒だかタッパーだかに、
色々な飲み物を入れて混ぜる。
それをグラスに注いで
最後に味を整える”

ことが”クリエイト”だと思っていた

だから僕は恐れていたし
追われるように足し続けていた

でも
いろんなものを
手放していく内に
見えてきた

身近な人への感謝と
日々の行いの大切さ

ぼくがぼくを
生きるのではなく
ぼくの周りの中に
ぼくが生きている

言葉も忘れてゆく中で
陽を受けて風に揺れる葉が
頼もしく見えてくる

 

そんな感覚を
今は大切に

手放して
空っぽになって
分かったんだから
大切にしてみよう

Link, Live, Community Vol.1

12/15は、僕自身初めてとなるイベント、
Link, Live, Community Vol.1でした!!

たくさんの方々にハンドパンのレッスンをする中で、
みんなが今の自分の実力を発表する場を作れたら素敵だなと思ったのがキッカケでしたが、
ハンドパンを通じて僕としか繋がっていなかった人同士が繋がって、
ハンドパンを共通項にした知り合いが出来れば
もっとこの楽器が身近で楽しいモノになるんじゃないだろうかとも考えた。

そして、ハンドパンをまだ持っていない人には
“周りにたくさん同じような人がいる”こと、
“レッスンを受けたり不安を解消出来る人間がいる”ことで、
安心してハンドパンを始めることが出来るという所を見て欲しかった。

 

どれくらいの人が集まるのか
どれくらいの人が発表したいと言ってくれるのか
本当に不安だったけど、
いざ当日を迎えるとみんな素敵な笑顔でとても幸せな気持ちになりました!!

トップを飾ってくれたのは、
この日の会場、
大阪・羽曳野にある
“ハンドパンにいつでも触れるBar” CLEFの
オーナーであるひーちゃんと息子のしんちゃん!!

この二人は親子で同じスケールのハンドパンを使って
「二人で曲がやりたい!!」という夢を始めから話してくれた
とても素敵な親子です。

レッスンもたくさん入ってくれているだけあって、
メキメキと上達していて本当にこの日も良かった!!

2番手はうしさん!!
この方は最近ハンドパンを手にいれた、音楽好きの男性。
まだまだハンドパンはこれからだけど、
今までたくさんの楽器を持って音楽と触れ合ってきたバックボーンがあるからこそ、
この日も即興でとても素敵な演奏をしてくれました!!

3番手はHandTapsのお二人!!
僕がレッスンを始めた本当に最初から、
今までずっとレッスンを定期的に受けてくれている二人。

ハンドパンだけじゃなくて、
色んな趣味を全部二人で経験する息ぴったりで笑顔満載な二人の演奏は、
僕にとっても感慨深かったです!!

そしてトリはTAKAKOさん!!

たくさんのハンドパンイベントでいつも一緒になるTAKAKOさんは、
本当にハンドパンが好きで、
ハンドパンが上手になりたいという意志がとても強く見える人です。

ただ技術の向上を目指すだけではなく、
自分の思い描く演奏をするための技術を求めているように見える彼女の演奏は、
勝手に共感してしまうほど素晴らしい演奏だった。

 

この日は、僕が始めに
「今日の僕は頼りになりません。基本的にお酒を飲んでみんなの演奏を聴いているだけの人です。」
とか無責任なことを言ったからか分からないけど(笑)、
本当にみんなが積極的に場の空気を作ってくれて、
その場にいた人たちと、ハンドパンの情報交換や教え合い、
雑談などをしていたのがとても印象に残った。

みーんな
同じ1つの楽器に
魅了されちゃった人たちなんだもん。
大丈夫だよ。

 

僕が定期的にやっている”ライブ&体験会”とは
また違った空気感の中でのイベントで新鮮だったな。

この発表会イベントも継続的にやっていきたいけど、
とりあえずはライブ&体験会が2020/1/26(日)にあるよ!!

こちらもいつもたくさんの方に来ていただいているイベントなので、
是非どうぞ!!

↓↓↓ご予約や詳細は、下の画像から!!↓↓↓

その他レッスンの詳細はコチラ!!!

 

来年も、
素敵なハンドパンの音色を
スタンスを
なるべくそのままに
たくさんの人たちに
届けることが出来ますように。

P.S .
TAKAKOさん、
素敵なプレゼントありがとうございます!!

 

SMALL PARTY

2019年12月7日

この日は
僕がやっている
ハンドパン×アコースティックギター×歌のユニット
the caves×SHUが今年の8月に出した
最新で最高のミニアルバム
「同じ夢をみた」
発売記念イベントを大阪にある
スーパーレトロマシーンで開催しました。

たくさんの方に来て頂いて、本当に楽しかった。
来てくれたみんな、来れなかったみんな、ありがとう。

この日は、僕とKZOさんの二人で計画をした。

だれもみたことがないなつかしさ

 

この日をいつか振り返った時に、
人生のふとしたタイミングで
思い出し笑いをするように
「あぁ、あのイベントに行って良かったな」
と思ってもらえるような
イベントを作りたかった。

自分たちの音楽
自分たちのお芝居
それを見せる前に、
まずは
エンターテイメントとして
楽しんでもらえるように。

僕たちの音楽に加え、
ラッパーのKZOさん、
まっすぐに言葉を出すA8さん、
そして、この日一日を通してずっと場を繋いで縁を繋ぎ続けた芝居紳士さん。

小さなホームパーティーに招かれて、みんなが少しの違いを楽しむ。
そんな違和感を感じられるような素敵な空間になれば良いなと思っていた。

土曜のお昼に場所を貸してくれたスーパーレトロマシーン
3ステージという空間の中PAをしてくれた上に、前日にチーズケーキとカップケーキを作ってくれたはるか
はるかと共に会場を作り上げたかのんちゃん
フリーおでんやチーズケーキとさつまいものカップケーキを販売してくれたつかさちゃん
受付を担当してくれたひーちゃん
この日のチラシを作成してくれて、当日はカメラマンを担当してくれた烈くん

本当に、スタッフのみんなも温かく楽しそうに当日を過ごしていたことがとても印象的だったなあ。

 

ぼくがやりたかったこと

みんなが仲間はずれで、みんなが一人。
だから僕たちは1つじゃなくて”みんな”でいれる。
違いを楽しんで、違和感を楽しむ。

SMALL PARTY
なんだ。
小さくて、静かで、
一人ぼっちでも
楽しめるように。

このイベントをもう一回やるかなんて全く考えていないけど、
みんながまた違った場所で出会えたら、めちゃくちゃ最高だよね。

 

All Photos by 烈 “the PHOTO” 白川