大切なことを教えてくれた、あなたへ。

“この岩は何十億年も前からおれが来るのを待っていた、準備していたんだ、おれの人生は毎日のあらゆる行動がここへとつながっていた、この大地の裂け目へと”

 

「突然何だ?」って思った方もいるでしょう。

これは、ダニーボイルの映画『127時間』で主人公が言うセリフです(大体こんな感じってだけだけど)。

内容は、渓谷を1人で探検するのが趣味の主人公が、ある時岩に腕を挟まれて、道具もロクなものがない、水も食料もあまりない、腕が抜ける見込みは全くないという状況に陥ったときに、一体どんな決断を下すのか……!!

というあらすじで、岩に腕が挟まれて数日目に主人公が言ったセリフなんです。

僕はこのセリフが好きで、”運命”も”偶然”も”必然”も”タイミング”も全部言葉次第、捉え方次第で意味合いが変わるっていうことを、とてもロマンチックに表現していると思います。

 

どこかで悲しい事件が起こった”せい”で、僕はハンドパンを日本に広げることを目標に、歩むことが出来ている。

 

 

『運命とは、皮肉なものだよ。』

なんてよく聞く言葉だけど、運命はいつでもまっすぐだ。

運命はいつでも決められた時間と場所で一つの事実を(あるいはいくつかの事実を)表現しているだけだ。

あとは、それぞれの人が自分の人生をかけてそれに意味を与えていくんだ。

 

 

東京でバスキング(ストリートライブ)をしている峯モトタカオさんと大阪で会った。

誰かとの予定が合わなくなったから僕と会ってくれた。

僕は嬉しくて、興奮して、峯モトさんの演奏があまりにも上手くて、少しヘコんだ。

たくさん話を聞いて、たくさん知識を得て、知識を得るたびに自分の無知を恥じてヘコんだ。

 

大丈夫、ヘコむことが出来るんならまだやれる。

峯モトタカオさん、本当にありがとうございます。

 

 

ハンドパンの元となったHang(ハング)を発明したスイスのPANArt社が出版している本を手に入れた。目の端に見えているものを放置する自分の惰性を愛している僕が、いかに鈍感だったかを知った。

 

 

“おれが思うに、人類最大にして最強の敵は『めんどくさい』だ”と書いていたのはマンガ『グリーンヒル』だったか。

“さて、平凡なおれよ、下を向いている暇はあるのか”と書いていたのは、週刊少年ジャンプで掲載中の『ハイキュー!!』先々週号だったか。

“俺のじゃまはするな”と言って”俺は俺の死を死にたい”と言ったのはマーシーだった。

 

何だってウラとオモテがあって、捉え方次第。

『めんどくさい』と思うことこそがあらゆるものの発明の元だし、一度は下を向いたからこそ、もう一度上を向くことが出来る。

 

 

アルプスの山頂からしか見えない景色も、ビルとビルの隙間から見える小さな空も、あの人の目に映る僕の姿も、殴られて倒れたときに見えるコンクリートのデコボコも、僕は等しく好きなんだ。

 

 

 

 

 

さて、僕よ。

現状という”事実”をどう解釈する?

“崖っぷちの惰性”か、

“草原を後ろ歩き”か、

“暗闇で目隠し”か、

はたまた”昼下がりの冷や汗”か。

 

 

 

道は一緒だぜ?メガネを外してもつけてもいいんだよ。

映画と余白、目を覚ます

もう2017年が始まって9日も経ったんですね!学生の人たちは明日から始業式だったりするのだろうか。僕が高3のときは、今頃が人生で一番勉強した時期だったと胸をはって(?)言える季節です。何せ僕はどうしても行きたいと決めていた大学があったくせに、指定校推薦で受かるだろうなんていう甘い夢を見ていたので、10月から初めて受験勉強を始めたんだから。笑 みんなが1年とか1年半とかかけて築いてきたものを僕は3ヶ月で作らないといけないなんて、すごい焦りでした。笑 ただ、試験に関しては詰め込み型が性に合ってる僕にとってはそれで良かったのかもしれないけど。

今年は年始に、割とハードな帰省スケジュールを組んだせいで、家に帰ってからしっかりとインフルエンザを発症しました!!笑 そのせいで、年始から組んでいた超楽しみな打ち合わせとか、新しい一歩を踏み出すアレとか、髪を切るとか(これは僕にとって毎回勇気のいることなんです笑)を全部キャンセルして、実家に引きこもって誰にも移さないようにジッとしていました。

何本も映画を見て(ハリーポッターシリーズ1~4、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』『モンスターズインク』『天才スピヴェット』)、何冊も本を読んで(ハリーポッターシリーズ1~3、『終末のフール』)、猫とも飽きられるぐらい遊んで(僕は飽きてない笑)。。。その間僕が考えていたことは、

「う・ご・き・た・い!!!」

ってことでした。笑 新年早々出鼻がくじかれたとか、時間がもったいないとか、そんな打算的な考えからくる欲求ではなく、もっと『僕自身』の根源みたいな奥底から湧き上がる感情として、活動を望んでいました。

今回の丸4日のこの余白とフラストレーションが、どうか僕の一年の活動の根源の一つとなって、アクセルを踏んでくれますように。

頭と、手と、足を動かし続けて、五感とその上にある感覚による情報のキャッチを見逃さずに、しっかりと考えて、答えは一つじゃないけど、結論はいつも決まってシンプルになる。どこかのお寺に書いてあった、「正しいことを言うのは易しい 本当のことを言うのは難しい」。やりたいことだけやることは本当に難しいのか?それはお前が難しいと『思う』からそう『成る』んじゃないのか?努力から少し目を逸らしていた自分を真っ直ぐ見つめるところからやり直したって遅くはない。「時間がない」なんて言ってたら時間はなくなる。「どうせいつかは・・・」なんて言葉はマイナスじゃなくて、僕にとってはすごく強い励ましの言葉なんだ。

『文字』の攻撃による、僕の再認識

こないだ買った本のうちの二冊、『少年アリス』と『ここは退屈迎えに来て』を読み終えました!本当にタイトルだけに惹かれて購入した二冊でしたが、これが驚くぐらい僕にとって新鮮で面白かった!!

どちらも僕にとっては『文字の攻撃』でした。普段小説を読んでいるときはやっぱりストーリーとか、セリフとか、比喩表現といった、いわば「内容」に目が行きがちなんですが、「本を読む」という行為は、実は単純に「文字を目で追う」行為に他ならないということに気づかされる二冊だった。

例えば『少年アリス』は、多用される漢字が、その単語に対する「新しい意味」のようなものを僕に与えてくれた。

「古い石造りの露台の柱には凌霄花(のうぜんかつら)の蔓が絡みついている。」

「烏瓜(からすうり)は夕闇の橙と曹達(ソーダ)水の透明を併わせ持った玻璃(ガラス)細工になる。」

「塑像のまわりを蛍星が蒲公英(たんぽぽ)の綿毛のようにゆらゆら伸ばすやつと飛び交っていた。」

「アリスは昼顔の洋盃(コップ)を受け取った。」

*()内は本文中ではルビになっています

などのように、今までひらがなやカタカナで認識して想像していた名詞が突如見慣れない漢字を仲介することによって、読み飛ばしてしまいそうな言葉を確認していくため、読むときの「テンポ感」が普段と全然違う。そしてその単語に対して僕が持っている「固定概念」のようなイメージはガラッと変わってしまって全てが僕の知らないモノになる。漢字がまろやかに古めかしく僕を侵食する。

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そして『ここは退屈迎えに来て』は『少年アリス』とは真逆で、カタカナのオンパレード!僕らも普段からよく知っている単語という単語が、カクカクしたカタカナとして迫ってくる。例えば、

マクドナルド、ダイソー、ニトリ、ブックオフ、ニューバランス、ローファー、セックス、EXILE、iPhone、ツイッター、スターバックス、ブロックバスタームービー、「フォーエバーとかエブリシングとかの単語」、「ナイロンジャージにスウェットパンツ」、「プラトニックな純度100パーセントのアイラブユーフォーエバー感」etc…

特に最後の「プラトニックな純度100パーセントのアイラブユーフォーエバー感」は、初見のとき電車で声を出しそうになるぐらいニヤニヤしてしまいました。笑

こんな風にカタカナだけで単語を並べると、いかにもファストで、イージーで、マスプロダクト的で、笑っちゃうぐらい嘘くさいけど、これが僕にとっての「リアル」以外の何物でもないということに気付かされて、自分が生きている現代を眼前に突きつけられる。それはため息が出るぐらい幻滅しそうになるけれど、見ないフリなんて出来ないぐらい僕もこのカタカナに浸かりきって生きている。

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この二冊は「文字」という、普段あまりにも当たり前に使っているせいで見過ごしがちなフィルターに色をつけることで、その効果を生き生きと僕に再提示してくれる大切な本になりました。稚拙な書評みたいになっちゃった上にハンドパンの話何もしてない。笑

 

 

 

レスピクルス

今日は久しぶりにどうでもいい話の回です。笑 祝日にヒマしてるなら、時間つぶしにでもどうぞ!笑 「どうでもいい話」と「カチッとしたお知らせ」は書くときの脳の使い方が違う様で、どちらも書くといつも楽しく書けます!笑 昨日は本を3冊買いました!僕がこんな風に何冊も本を1日で買うときは、大体色んなことが僕が生きる世界で上手く噛み合っていないときです。笑 きっと僕なしで成り立つ他の世界に逃げたくなるんだろうな。何も決めずにフラフラと本を買うときって、タイトルに魅せられることが多いので、僕にとって本のタイトルというのはすごくすごく重要です。でも僕のブログのタイトルは大体適当に決めてます。笑 ちなみに僕が『本』という場合、大体小説のことを指すのですが、今回は珍しくエッセイ?も買いました。どれも読むのが楽しみだ!!

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最近は本当に参っちゃうぐらい色々と空回りしている様な気がします。お気に入りのレストランでいつも食べるハンバーガーのピクルスの枚数が減ってしまったような感じ。僕だけが食べて分かる、僕だけが残念がる変化。ピクルス数枚分、味の薄い世界にいるみたい。まあ、お気に入りのレストランもお気に入りのハンバーガーもないからよく分かんない例えなんだけどね。笑

そういえばずっと楽しみにしてた、ミシェル・ゴンドリーの『グッバイ,サマー』を観に行った!映画としては、正直観る前から僕が好きなことは分かっていたので、感想は特に言いませんが、この映画のことをふと考えたくなることが人生において何度か出てきそうな、そんな後味のする映画でした。台風が過ぎてさすがに朝晩は寒くなってきたので、僕は半パンとTシャツをやめ、ジーパンにネルシャツを羽織って観に行きました。グッバイサマーなんて言いたくないけど、季節や大人や世界は僕を待ってはくれない。

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26歳、『飛ぶ教室』。

ありがたいことに今日で、僕は26歳になりました!!これまでどうだったとか、これからどうしていこうとかは特にありません。笑 僕はこれまで通り、誕生日だからって何か変わるかと言えばそうでもないし、「何にもない日」にある日突然180度方向転換するかもしれませんが、一つの区切りとして、これからもよろしくお願いしますとだけ言わせて下さい!

そんな僕はこの1週間ほどで、ある一冊の本を3回読み直しました。それは、エーリヒ・ケストナーという児童文学でよく知られるドイツ人作家が1933年に発表した『飛ぶ教室』という本です。以前からタイトルだけは知っていて、「素敵なタイトルだな」とは思っていたし、日本でも舞台や映画や漫画で同じタイトルのものが付けられているのを多く見るので、さぞかし古典的名作なんだろうとは薄々感じていました。笑 でもお恥ずかしい話、つい最近初めて読んだのです。笑

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簡単にあらすじを説明すると、ドイツの寄宿舎学校に通う(住み込みだからこの表現はおかしいか笑)、5年生(日本では14~15歳ぐらい)の男の子5人が主役で、クリスマスまでの数日間に彼らの身の回りで起きる「事件」という名の「日常」を描いたお話です。それにしても素晴らしかった。あまりにも良かったのですぐに何回も読み直したのですが、3回読んでも同じ所で泣きそうになる。僕はいつも、「子供のときのあの、世界が新鮮で驚きに満ち溢れている感じは絶対に忘れちゃダメだ」って思っているのですが、それでも忘れていたことがあった。子供のときって、今思えば笑えるようなことにも、めちゃくちゃ本気だった。今よりもずっと全てのことに対して本気だった。鬼ごっこにも、ケードロにも、缶けりにも、たかおににも、嫌なことを嫌と子どもなりの理論で反抗することにも、映画を見に友だちと少し遠出をするのにも。それがこの本の中にとてもたくさん書かれていて、思い出した。

『おもちゃが壊れたので泣くとか、長じて友だちをなくしたとか、その手のことはしょせんはどうでもいいことだ。人生に大切なのは、何を悲しんだかではなくて、どれほど深く悲しんだかということなのだ。神かけて言うが、子どもの涙が大人の涙よりも小さいなんてことはなく、しばしばずっと重いものだ。世の方々よ、誤解しないでいただきたい!ことさらおセンチなのがいいなどと申しているのではない。たとえつらくとも正直であってほしいのだ。骨の髄まで正直であってほしいのだ。』(『飛ぶ教室』より)

あとは忘れているつもりはなかったけど、こんな風に言える大人が何人いるんだろうと思うと、少しだけ切なくなるセリフ。先生がクリスマス休暇前の集会で生徒達に語りかける場面。僕だって自信満々には子どもたちにこんなこと言えない。子どもたちが忘れないのは、言葉か、眼差しか。

「『ねがわくは消えてほしくないいまのこの時に、きみたちに要望したい。幼いころを忘れるな!きみたちはまだ幼いのですから、よけいなお世話のように聞こえるかもしれないが、よけいなお世話ではないのです。どうか私たちを信じてほしい!年をとりましたが、にもかかわらず私たちは若いままなのです。ふたりとも、そのことがよくわかる!』ドクター・ベクとドクター・ウトーフトはたがいを見つめ合った。幼い者たちはその眼差しを、決して忘れないと心に誓った。」(『飛ぶ教室』より)

26歳。今のところ僕の人生の方向に狂いはないし、何だったら最初から決まった道もない。この年齢をきっかけに何かが変わるわけでもないけど、このタイミングでこの本に出会えたことは何かの必然かもしれない。

物語とあとがき、あとは風景とか

さてと、今日はどんなどうでもいいことを話しましょうか。笑 僕は普段人とお話をするときは、相手の話を聞くのがとても好きなので、どうも質問攻めになって自分のことはないがしろにしてしまいがちなんですが、ここでは質問する相手がいないので僕が一方的に自分の話をすることになりますね。笑

ついこないだ、池澤夏樹の『静かな大地』を読み終えました。あ、こないだブログの中で『マシアス・ギリの失脚』をチラッと出しましたが、あれも池澤夏樹さんの本です。笑 前から好きだったのですが、最近長編を読み直しています。『静かな大地』について言えば、アイヌの信仰と、明治初期の本土に住んでいた日本人によるアイヌ民族への軽視と軽蔑という歴史を一人の才ある若者の活動を複眼で見つめることによって描き出す、史実と創作を混ぜた歴史小説なのですが、まあ本当に素晴らしい本です。読み終えるのが惜しいほどに。これについては読んで欲しい気持ちが強くあるので、あまりあらすじをバラしながら僕の感想を述べるのは止めておきます。笑 気になる人は個別にお話しましょう!!笑 本のことをお話する友達、欲しいなあ〜。笑 音楽と映画の話をしてくれる人はたくさんいるのに、本と絵の話をしてくれる人はなんだか少ないので、もっと僕が興味を持っていることを発信して、誰か捕まえようと思います!笑

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それはそうと、僕は小説の最後についてる「あとがき」がすごく好きなんです。笑 物語にとても熱中して読み終わったあとに、作者や関係する人が「さて、……」なんて言ってその内容のことを話し始めて、その人なりの目論見や感想を、振り返りながら話していく、徐々に現実に戻してくれるあの感じ。ジワーッと、ゆっくりと、浸み出すように現実に戻るあの感じ。だからあえて言えば、あとがきの中であらすじを最初に説明してくるタイプのあとがきは好きではないです。笑 もう読み終わったのにまた一から説明はしなくていいってなっちゃうんです。笑 例えば、幼稚園で先生が絵本を読み聞かせしてくれた後に、「おしまい……さあ、この絵本を読んで◯◯ちゃんはどう思ったかな〜?」って言うのもとても好きです。つまり、読後感を少し引きずりながら、現実に戻っていく中でその物語を噛みしめる。そんな時間がすごく好きです。

物語という、紙に印刷された文字の判読で主観を俯瞰的に見て、ときにはリアル以上のリアルな感覚を与えてくれる第二の現実から、今自分が座っている椅子の材質とか日の高さとか、吹き抜ける風、周りの人々を自分の五感と手触りで感じるいつもの現実へと戻っていくスピードは、あとがきを読むスピードに比例しています。だから、僕は外で本を読むのが好きでもあります。現実に戻ったときに時間の流れをありありと見せてくれる外で読む本は、「本を読む」行為以外の楽しみを与えてくれます。

今日は、こんなところでどうでしょう?笑 嫌々書いているわけじゃなく、むしろ好き好んで書いているんですが、こんな内容でいいのかと不安になりますよね。笑