この間、『おじいちゃん、死んじゃったって。』という映画を観てきました。
公開中なので詳しくは言わないですが、なんだか良い映画でした。
『家族』を題材にした映画と言えば、今年見たグザヴィエ・ドラン監督の『たかが世界の終わり』が僕の記憶には新しいですが(ちなみにこの映画は本当に最高でした。今年に入って21本の映画を映画館で観ましたが、11月中旬現在において今年一番です。ひょっとするとそれ以上、僕の人生で観た映画ベスト10に入ってくる勢いなので脳内評議会に掛け合ってみます笑)、それとはまた違った角度から”家族”について描いている作品でした。
家族ってうっとおしいけど、自分の中にある自分の嫌いな部分を躊躇なくさらけ出せる。
大きな画用紙にそれぞれがそれぞれの思うように描いた絵が重なり合って、汚くなって、それでもその絵は世界に一枚しかなくて。反発すればするほどどこか似ていったりして。その絵を”嫌いだ”って思うほど、実は自分にとって大切なんだっていつか気づいたりして。
小さい頃に見た、絶対にありえないはずなのに当時の僕にはリアルだとしか思えなかった夢。
そんなのずっと忘れていたはずなのに、何かの拍子でいきなり思い出す。
そんな感じの映画でした。
僕の中にあった、”忘れないようにしたい”と思っているいくつかの出会いや別れが走馬灯のようにセリフとストーリーに沿って流れていく映画だった。
嫉妬と悔しさとふがいなさと器の小ささ。
自分への甘さ。
それが自分の中にあることが分かっているのに認めたくなくて。
ムキになって、自分を守るために相手を攻撃して。
傷つけたくないはずの、相手も自分も傷つけて。
誰かのために変わろうって、『自分のために』思えたら変われるのかもしれない。
毒にも薬にもならない僕だけど、水のようでありたい。
そんなことを言いたかったんじゃないんだ。
そんなことをしたかったんじゃないんだ。
そんな顔をしたかったんじゃないんだ。
そんな顔を見たかったんじゃないんだ。
本当に言いたかったことは、本当にしたかったことは、周りに誰がいてもいなくても変わらない、とてもシンプルなものであるはずなんだ。
だけど怖がりで自分に自信がないからきっとカッコつけているんだ。
“焦り”と”苛立ち”は僕にとって石のようなもので、僕の上に乗せれば歩みを鈍くするけど、僕が上に乗れれば一つ上の景色を見ることが出来る。
僕が、もっと僕とその周りにいる人のことを大切に思えますように。