パスタの適温、人の適温

僕はパスタがとても好きです。『もしこの先一カ国の料理しか食べられないとしたら?』という、あの『宝くじで3億円当たったらどう使う?』と同じくらい無意味で、普段何を考えているのかを試される質問では本気で日本かイタリアで迷うぐらいパスタもピザも好きです。(ちなみにこの答えはまだ悩みかねています。笑) これは母の影響も強くて、特にナポリピザが好きな母は美味しそうなお店を見つけては昔から僕を連れ出してくれました。

そんな僕がここ6~7年ほど考えていることは、「パスタの適温」です。笑 これは僕にとってすごく難しい問題です。茹でたてを熱々のソースに絡めてすぐに提示されるようじゃ、熱くてとても食べられないし味も分からない。もちろん冷めても美味しくない。うどんやそばのように汁があるわけでもないし、ソースはパスタに絡みついて味を出すペーストだから、熱い=良いではない。僕がパスタをフォークで掬って、息を吹きかける必要もなく、「お皿の上に盛られたパスタからフォークで巻き取られて僕の口へと移動する過程」で少し冷め、それを口に運んだ時に口の中で気持ちの良い温かさを感じる温度が僕は好きです。そんな僕の欲求を満たしてくれるようなお店、誰か知りませんか?笑

同じように僕が考えるのは『人の適温』。というよりは『人と人が接するときの適温』でしょうか。誰かと二人で話すとき、おそらく無意識のうちに一方が他方に合わせているその温度。1対1ならまだ分かるけど、グループになると僕は駄目だ。色んな温度のパスタを一度に出されたみたいになる。笑 「自分は自分だからそんなの関係なくない?いつでもそのままで居たらいいじゃん」っていう人も、絶対に、(この世に『絶対』なんてない前提の上で、語彙力のなさからこの言葉を使うけど)絶対に人によって温度を変えています。

そしてストリートに出るとき、僕はいつもそれを気にかけています。立ち止まる人の温度、過ぎ去る人の温度、少し遠くから聞こえるはずの僕の音に耳を傾けてくれる人の温度、僕の温度。それらをなるべくつぶさに感じ分けて、どの人の体にも気持ちの良い温度で染み込む演奏が出来たらどんなにいいだろうといつも思っています。普遍的で、言語の壁を超えることが出来るはずの音楽で、熱く響き、冷たく胸を締め付け、心を躍らせ、肌で感じることが出来る演奏が出来れば少しは誰かの為になるのでしょうか。

今日見た映画は、瀬戸内寂聴原作の『花芯』。これについてはまた書けたらいいな。また結論があやふやになったから、締めはこの映画で逃げます。笑

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